現代の国際システムという観点からみると、イスラム国は、システムの外にいようとする前近代的な存在なのだということが分かった。
イスラム国とは、つまり中世以前の、いまより400年以上前を生きている存在だということだ。これが、国際社会からみたとき、イスラム国とは何か、というものへの答えと言えるかもしれない。しかしそれでもよく分からないという最初の問題に戻るので、とりあえずここでは何が問題か?に沿って話を進めたい。
中世が、絶対的価値をめぐって闘争に明け暮れた時代だということを前回、紹介した。この反省のもとに、いまの国際システムがある。そして
この現代を支えているのは、原理的に妥協できない絶対的価値を理由に争わず、話し合いを重視し、そういう話し合いの場をとにもかくにも共有しておこうという国家たちによって構成される国際システムということだ。
国際社会には統一政府はなく、したがって原則として無秩序なのだが、この国際システムはとにかく機能している、だからこの国際システムに入らない存在は、システムへの挑戦者、ときには破壊者ということになる。
「話せばわかる」という名言があるが、それでは前近代的な存在、中世の価値観の中にある人々との話し合い、交渉は可能なのだろうか。これを次に考えてみたい。少しイスラム国と外れるが以下を想像してもらいたい。
比叡山延暦寺を焼き討ちしようとする織田信長に、「非人道的」だからやめよと言って通じるだろうか?
朝鮮半島出兵前の豊臣秀吉に、「侵略は悪である」からやめよと言って止まるだろうか?
答えは限りなく絶望的だ。要するに
中世的価値観に生きる人々との現代的価値観に基づく交渉は、事実上、不可能なのだ。なぜなら現代の価値観とは、
相互の妥協の可能性を前提にした交渉が基盤であり、かつ、普遍的価値と呼ばれる歴史の教訓に根差したいくつかの事項―例えば信長と秀吉に問いかけたような「人道」や「侵略は悪」というもの―を(いちおう)各国が共有し、少なくともそういう価値があるということは否定しないことを必要とするものだからだ。
妥協の余地が最初から皆無であり、普遍的価値を歯牙にもかけない人びととの間に、交渉は原理的に成立しないのだ。交渉が絶望的だという直観的な感覚が事実だとしたら、以下もたぶん正しく、そして正しいだろうということに共感を得られるだろう。
(少なくとも)中世@過去よりも現代は、(控えめに言っても)ましなのだ。
ここで思い出してもらいたいのは、なぜ、
現在の「絶対的価値を巡って争いをしない」ようにする国際システムが生まれてきたのかということだ。中世的な争いをすると結局は終わりなき戦いでしかなく、どちらかが勝利をおさめれば敗北側は従属し、運が良ければ抑圧の中で生きるということになるが、前回述べたように、その過程では多くの人々が死に、国は荒廃する。
だから妥協の産物として主権国家に基づく国際体制が作られてきた。もちろんそれでも戦争を防げず、とくに二度の世界大戦を経験したことは、その破綻が明確に表れた。しかし、
そうした苦難の歴史を踏まえてようやく行き着き、どうにか機能してきたのが現在の集団安全保障にもとづく国際システムということだ。
このように考えると、人によっては歴史に逆行していると表現するかもしれないイスラム国の何が問題なのか、みえてくるだろう。
イスラム国は、他の国、他の人々の存在を許さず、他の価値体系を原理的に否定する存在なのだ。
国際社会においてそういう存在を許容することの結果はとても単純なものになる。
話し合いの余地を置かず、絶対的に正しい価値観に基づいて行動することが正しいとする思想の蔓延―世界全体の中世化―でしかない。
したがって
現代の国際システムにとって中世的存在は許容されない。イスラム国は現代世界の破壊者であり、前近代的な方法を平然と取る中世の亡霊として、対処されることになる。その時、自身が絶対的に正しいもので妥協の余地はないのだとするイスラム国自身のテーゼゆえに、彼らに向けられるのは現代国家システムからの徹底的な排除ということになるだろう。
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執筆担当:研究員A
<プロフィール>都内某大学研究所所属の研究員。国際政治研究を専門としていますが、最近はISの動向を中心にテロ情報を眺める毎日。情報を集めながら論文にはならないネタを色々とつぶやいていきます。更新は不定期なので、何か関心事を問い合わせ頂ければ次回投稿にしてみますのでお待ちしてます。